タイピングの手が滑ったとき
あなたは、ため息をつきましたか。
それとも、少し苛立ちを覚えましたか。
「なんでこんなふうに変換するの」と機械に呟いたことがあるかもしれません。 けれどその瞬間に、立ち止まってみてほしいのです。
変換の「ミス」はもしかしたら──小さな奇跡かもしれないと。
たとえば「彼は未来に向けて異端を踏み出した」と打とうとして、 画面に浮かんだのは「板を踏み出した」だった。 ずいぶんと勇ましさが削がれたようで、最初は笑ってしまう。
でも、ふと想像してみるのです。
その「板」とは何か。
朽ちた板か、揺れる橋か、あるいは人生という舞台の足場か──
そう思えば「板を踏み出す」ことだって冒険の始まりに見えてきます。 誤変換は、意図から外れた落とし子。
けれどそこには、意図を超えた余白があります。
「元気を出して」が「電気を出して」になったとき
「元気を出して」より元気になった。
ほんとうの励ましは、正しさを超えて届くのかもしれません。
そうして言葉のズレは、ただのミスではなく、 ユーモアと詩を運ぶ風になる。 それはキーを打つあなたと画面の向こうにいる誰かの間に生まれる、 ささやかな誤解のやさしさ。
まちがえたままの文章を
きみに送ってしまった
でもきみは ふふ、と笑って
「すき」とよんだ
タイピングとは不思議な対話です。
自分と自分の手と、そして機械との。
ときにその対話はかみ合わず、すれ違う。
でも、そのすれ違いの中にも思いがけない花が咲くのです。
「愛してる」が「会いしてる」になったとき。
間違いのなかに宿ったのは、会いたいと願う心かもしれません。
ここは「かな漢タイピング」。
あなたが静かに言葉を紡ぐ場所。
たとえ変換が思いどおりにいかなくても、大丈夫。
それもまた、あなたの物語の一部です。
間違いを憎まず。
笑い飛ばしもせず。
そっと、ことばによりそうために。
今日もひとつ、ことばの小径を歩いてゆきましょう。